新発田支部は、総勢33名、平均年齢約68歳の落ち着いた大人の香りがする支部です。
年寄りが多く、活動が活発ではないのではとの疑念がおありでしょうが、とんでもない、御年92歳で、バリバリ現役の、O先生を先頭に、10%を占める女性会員が引っ張る、活動的な支部でもあります。
その一端を示せば、毎年行う一泊研修会、支部旅行をこなし、そして例会出席率は約80%、研修会出席率も約70%を越えています。
そんな新発田支部が有る新発田市は、人口10万3千余人で、溝口家新発田藩があった城下町です。
豊臣秀吉に命ぜられ、慶長3年加賀の大聖寺から移封されて以来、江戸時代の幕藩体制が終わるまで、一度も改易又は移封がなかった珍しい藩でも有ります。
ところで、産業があまりない新発田市にとって観光は、大事な収入源です。
観光資源は、新発田城を中心としたもので、その中での重要な物は、かの赤穂浪士で有名な堀部安兵衛武庸です。堀部安兵衛は、赤穂藩お取りつぶしの後、仇討ち江戸急進派の中心として活動し、大石内蔵助に仇討ちを決断させた重要人物としても知られています。
最近のBSテレビ「ザ、ナンバー2」でも取り上げられるほど、知名度は全国区です。
その、堀部安兵衛は、旧姓中山安兵衛と言い実父 中山弥次右衛門は、溝口信濃守の家来で、一族は家老上士の家柄であったそうです。
中山家の菩提寺は「長徳寺」と言い、私の旧事務所の真ん前に有ります。私は3歳の頃から「長徳寺」を自分の庭のようにして遊んでいて、中山家の墓石も見ていますし、「堀部安兵衛手植えの松」も見ています。
堀部安兵衛の生誕の地は新発田です。この事は、私に限らず新発田市民の常識です。
ところが、驚いたことに、福島県の会津坂下町にもう一つの「堀部安兵衛生誕の地」があったのです。
会津坂下町のホームページを見てみると、「貴徳寺」というお寺に、堀部安兵衛の両親の墓があることになっており、堀部安兵衛の銅像まであるのです。
その説明文を見ると「あの赤穂浪士の一人堀部安兵衛は、本名を中山安之助と言い寛文十年会津坂下町内の貴徳寺で生まれている。
母は、安之助が五歳の時病死し、病床にいた父も十三歳の時押し込み強盗に切られて亡くなっている。この時、安之助は父の脇差しで強盗を刺殺し、見事仇討ちを果たしている云々」ある人によると、同じような筋書きの講談本があるのだそうです。
新発田藩年表によると、天和3年(1683年)辰巳櫓焼失とあります。つまり、新発田市民の常識は、「当時、辰巳櫓の責任者が安兵衛の父、弥次右衛門で、櫓焼失の責任を負わされ、藩を追放され浪人した」です。(この事は、新発田藩世臣譜に書かれている)決して押し込み強盗などに切られたのではないのです。
ただ、堀部安兵衛の生誕地に関しては、会津坂下町に押されていることは事実で、例の貴徳寺には観光客が多数来ており、おまけに「安兵衛まんじゅう」まであるようです。
私たちは、「安兵衛の生誕地は新発田」があまりにも常識過ぎて、無関心になってしまったのではないでしょうか?
遅ればせながら、これに危機感を覚えた新発田市は、大事な観光資源「堀部安兵衛」を会津坂下町から取り戻すべく、2012年5月1日から31日まで「堀部安兵衛生誕地祭り」と称し様々なイベントを企画実施しましたし、其れと平行して、和菓子メーカー、料理屋、酒蔵等が安兵衛を冠にした商品を次々復活又は新たに提供を始めました。
戦いは、これからです。日本全国に「堀部安兵衛の生誕地は新発田」が根付くまで限りない努力が必要となります。頑張れ新発田市民!