
例年のことであるが、盛夏のこのころに、ある記憶が蘇って来る。
半世紀以上も前になる昭和19年の夏、私共は華中湖北省の地方都市当陽(武漢の西方400粁余り)郊外に駐留し、訓練に明け暮れる毎日であった。
日盛りの行動を避けるため4時起床、3粁ほど離れた丘陵での演習開始は5時、石塊混じりの黄土の上を這い回り、汗と土埃にまみれて演習の終わりは10時、吹く風は熱風、ここは「中国の三暖炉」の一地域に数えられていた。
帰営して真っ先に兵器手入れ、次は兵舎裏の華中では希な澄んだ川の流れに浸りながら被服を洗い、舎内へもどって朝食、その直前であった。
「空襲だっ」っと叫ぶ声、銃と弾薬を握って舎後の各自の蛸壷壕へ飛び込む、殆んど同時に、超低空で飛来した米国製カーチスP41戦闘機から機銃掃射、反転してまた、屋根、壁を貫き、くさむらに干した被服がくすぶって舞い上がり、土煙を上げて地面に突き刺さる銃弾、一瞬のことであった。
どれほどの時刻が過ぎたことか、不吉な予感に呼吸が速まる。「空襲警報解除」の声が聞こえても、壕から出ようとする者はいない。二度三度と繰り返され、漸く舎前に整列、人員点呼。
予感は現実のものになった。兵舎の中央出入口近くの壕内に、舎内通路の土間で、北側出入口寄りの床上に、舎外のくさむらと、4名が遺体で。舎内のあちこちには、重軽傷の3名が、痛みを耐えて応急手当を待っていた。
わずかひととき前の水浴に、無心で笑いさざめき合っていた顔、顔、顔が夢のように思い出された。ここが最前線であることの意識が薄れ、無警戒であったその虚を突かれたのである。
終戦の前年8月2日に襲ったこの惨事は、尊い生命を奪って遺族を限りない悲嘆に陥れ、負傷者の心身に終生消えることのない痕跡を残した。濃緑色の戦闘機の残像は、私共の脳裏から風化することなく、悪夢のように去来するのである。
人類の英知によって、戦争という忌まわしい行為が、地球上から払拭される日の到来を切に念願して止まない。