木戸 甲子蔵


 永年勤めた税務署を退職したのは平成3年の7月であった。
 以来税理士の登録を行い税理士として再出発した。数ケ月後或る人の心配で新潟市のN税理士事務所へ顧問として勤務することとなり通い始めた。

 その事務所は税理士の外に司法書士及び土地家屋調査士の資格も有する経営者で従業員は20人近くもいる大きな事務所であり活気ある職場であった。そこでは法人税の申告書の書き方から教わった。現役時代には毎日のように見ていた申告書であるが、いざ自分で書くとなると知らない面が多々あり、その都度聞く始末で約1年の勤務期間で漸く覚えるという次第であった。そこでは数件の得意先の分担があり、日程を組んで得意先を巡回して相談を受けたり、先生の代わりに企業の決算総会へ出席したりもした。時々は従業員からの相談事もあり結構緊張することがあり、いい勉強になったと思っている。

 そうこうする内に1年近く経過した頃、新発田の先輩税理士であるH氏が死亡し葬儀に参列した際、奥様に挨拶したことが縁で事務所を継承してくれないかという要請が先輩を介してあった。突然のことだったので熟慮を重ねた結果引受けることとしてその旨返答した。数日後その事務所へ出所した。

 従業員は2人で何れも親戚の間柄であった。先ずは得意先への挨拶回りということで始めた。2市2町2村に及ぶ広範囲で1日では回りきれなかった。関与税理士の死亡ということでこれを機会に関与を断るという所も数件発生し、暗たんたる気持ちにさせられた。法人個人は半々程度であった。仕事は先ず法人の決算申告から始まった。いざ自分の責任においての実行となると不安があり、何かとK先輩に指導を仰いだ。得意先からは夜半に取引先が倒産したのでその債権徴収の方法を聞かれたり、会社解散の相談を受けたり、後継者との不仲の相談等色々有それは万相談事を呈する内容であった。

 個人については年末調整に始まり、決算申告と作業は続いた。又税務調査も毎年数件ずつ行われ、相続税の調査もあり或る法人の代表者には査察調査が行われるという事態が発生した。
 現職時代とは立場が逆になり複雑な思いを味わって来たものである。

 7年数カ月の事務所経営を振り返ってみると、よくぞどうにかやって来られたという想いです。これといった取柄もなく只真面目にやって来ただけという感じですが、長引く不況下で解散廃業等が続き退勢傾向になったことが残念です。ともあれ従業員や先輩の皆様のお力添えをいただいての遂行でした。厚く厚く感謝申し上げます。


 会報についての想いは新発田支部では全員参加ということで広報部へ配置された。広報部の仕事としては年2回の支部だよりの発行があり、原稿依頼に気を使った。その他としては年数回新聞紙上への広報や地方自治体の広報紙への掲載依頼等が行われる。又税を知る週間行事の一環として行う講演会の企画実行は重要な仕事であった。

 県連及び本会にも広報部があり、自動的に県連広報部員となり6年間も勤めることとなった。本会の広報部副部長も2年勤めた。広報部を通じての印象は矢張原稿集めが一番の仕事であった。本会の界報には長文の専門的な知識を要するものがあり、この原稿を頼むと断られることがしばしばあり、代りを見つけるのに一苦労した。でも原稿の校正、機関紙への割付け、ゲラ刷りの校正等一連の作業を終えての刷り上がった時の喜びは例えようもないものであった。県連本会を通して長い間広報部員として活動して来たが、この間大勢の人達から御協力をいただきどうにか任務を全うできたことを深く感謝申し上げます。


 かいつまんでいうと以上のようなことで経過して来たところ平成12年秋体調悪く数回転倒して意識がなくなり救急車で県立病院へ運び込まれた。医師の診察では胃潰瘍ということで血液が著しく減少しており、多量な輸血をする等危険な状態であったことが判明した。妻は覚悟をしたようであった。仕事一筋の人生でこのままあの世へ行くのでは余りにも気の毒な人生と思ったらしい。又ストレスの影響もあると云われ仕事は控えた方がいいのではと家族の忠告もあり、考慮を重ねた結果事務所は後継者に引継ぐこととなった。いざ仕事を離れてみると侘しさは例えようもなく、仕事のできる内が花ということがしみじみと実感された次第です。そのようなことから3月限りで税理士を廃業退会したところですが、これからは好きなことをして新潟での新しい生活(10月に新潟へ転出する予定です)余生を十分に楽しんで行こうと思っています。


 皆様には長い間大変お世話になりました。有難うございました。
深く感謝申し上げます。