由良 雅一


 日韓合同主催によるワールドカップW杯が1ヶ月にわたって開催され、熱狂的な人気と感動の中に無事終了した。
 間もなく甲子園では、郷土の栄誉を担って高校球児の熱い闘いが始まる。
 各スポーツの人気が高まる中にあって、最近やや人気が低下気味といわれている相撲のことなど書くのは、いかがなものかと迷いつつも、過ぎ去った昔を懐かしく想い出しているうちに、このような題名になってしまった。

 すべてのスポーツの人気はその時代の流れにより、いろいろと変化が見られるが、大相撲も長い歴史を振り返ると興隆の時代、衰退の時代が繰り返されてきた。
 私が小学時代の相撲界は双葉山を中心とした空前の昭和黄金時代であった。
 発行される花形力士のブロマイドや相撲雑誌は飛ぶように売れ、場所が始まると多くのファンが前日から国技館を取り巻き、翌日の相撲を見るという騒ぎが続き、相撲に対する国民の人気を集めた。

 現在はテレビの普及により相撲を目で楽しむ良い時代になったが、当時は雑音の多いラジオの前で、名調子に流れるアナウンサーの声を耳に受け入れ、一挙一動を頭の中で空想して興奮したものであった。
 その頃の相撲は大相撲のみならず、各地方の草相撲、学生相撲、旧海軍の相撲部なども盛んに活躍した時代で、それぞれの組織・団体の中で技を競っていた。

 相撲に入門するいきさつについては、いろいろとあるが、昔ほとんどの力士は小学校卒業後、未知の世界である相撲部屋に入門し、基本の第一歩から鍛えられ、苦しい稽古に耐えて大成していった。
 学生相撲から大相撲に転向する例はまれで、ただ一人笠置山という大学出身の力士がいたが、この笠置山の場合は、はじめから力士になるために奈良県から上京して、たまたま出羽の海部屋に身を寄せ、早稲田大学に学んだということで、入門のきっかけについては、現在と大分異なる。

 近年は、学生相撲の実績に自信をつけ、各大学から年々相撲界には入る力士が増え、時代は大きく変わってきた。
 外人力士についても、高見山の成功を機に、世界各地から土俵を踏む若者が続き、相撲史上例のない二人の横綱まで誕生し、国技大相撲も国際化の彩りを添えるようになった。
 以前は、学生出身や外人力士は異色の力士として注目され、他の力士もそれなりに競争意識を持って対抗していたが、ここまでくると相撲界も相撲を見る一般ファンの目も違ってきたと思われる。(名古屋場所現在で関取数66名のうち大学相撲出身25名、外人力士6名、計31名の割合は47%)

 明治の文明開化により、日本人の髪は短くなったが力士の象徴である「まげ」は今も残され、身につけるものは「廻し」のみ、素手、素足で体重差のハンディもなく、限られた土俵の中で勝負を決する相撲は、日本独自の格闘競技である。
 昔から古いしきたりや伝統が重んじられ、後世に引き継がれる中にあっても、年々社会環境の変化により、力士の気質、考え方、相撲の見方も随分と違ってきた。

 相撲の取り口もスピーディーな動きになり、多彩な技が使えるようになったと共に、力士の体重増加も原因と思うが、決り手などは昔にくらべると大分変わってきている。 戦後は、いくつかの改革がなされ、昔は年二場所の本場所も現在は15日間の年六場所制の時代になり、見る側からすれば楽しみも多くなったが、番付の昇降も激しく、力士にとってはきびしい時代になったと思う。

 この影響で地方巡業でも、昔は一門系統別の少人数で行われたが、現在は部屋別総当制の中で、呉越同舟の大合併の時代となり、巡業日数も少なくなり、雨天順延の小屋掛興業から、体育館等を使用するようになり、巡業形態も大きく変ってきた。

 相撲人気を盛り上げるためには、良い力士を育て、白熱した土俵を展開してファンを喜ばせることが最大の課題であり、協会も歴代理事長を中心として、それなりの苦労をして指導にあたっているが、結論としては各力士の心構えであり、努力する力士が着実に伸びているのは、昔も今も変わりない。

 最後に立会の問題であるが、協会側も「仕切り」「立会の正常化」については特に気を使って、昔のフィルム等を参考にして、立会の特別研修会をしばしば開催してきた。見る側からしても、乱れた立会は気もそがれる。
 昭和の大横綱といわれる双葉山の立会は実に見事なものであり、相手が立てばいつでも受けて立つ不動の信念は今でも語り草として伝えられ、以後多くの名力士が誕生したが、あれだけの立会をする力士はいない。

 昔、フランスの小説家ジャン・コクトーがはじめて相撲を見たとき、仕切りから立会の瞬間を「バランスの奇跡」と感嘆した。
 外国人にまで賞賛された阿吽(あうん)の呼吸、各力士もお互いに努力をして、立派な立会を見せて、限りなく前進をする相撲に邁進して欲しい。